2025.06.09 作品性と非作品性
建築界のトップランナー伊東豊雄さんが、
最近の著書で私にとって興味深い事を示してくれていました。
伊東さんは建築界で知らぬ人はいない、
世に新しい「作品性」を追求してきた世界的な著名建築家です。
ただ、東日本大震災で東北に「みんなの家」という、
これまでの作品性は前面に出さず、
普通の切妻の木造で、地域の人たちが集える集会所を設計されました。
あるメディアでは
これを伊東さんの作品として出すのはどうか、と書かれていたくらい。
それでも、住民の方たちは涙を流してこの建物を喜んでくれたそうです。
伊東さんは今まで追求してきた建築家としての「作品性」
を抑えたにも関わらず、
今までに無いくらい喜んでもらえたのが衝撃的だったと仰っていました。
震災後の人々にとっては一個人の建築家の作品性なんかはどうでもよくて、
気心知れた人と再び集える「場」がある、事に感動したんだと思います。
伊東さんは著書で、
自身の建築人生を揺さぶるくらい大きな出来事だったと述べています。
つまり、今までずっと追及してきた建築家個人の「作品性」だけではなく、
使う人に寄り添った「非作品性」の価値を
設計人生の終盤で気付かれて認めてくれたのです。
普通の良さの価値と言ってもいいかもしれません。
建築って、空間だけでなく、
過ごす人の記憶とか生活の色も価値なんですよね。
それ以降、ずっと作品性と非作品性とは何か?と考えるようになったんだそう。
これは建築って誰のために創るのか?という問いなんだと思います。
私はルールの厳しいハウスメーカーで9年修行しましたから、
伊東さんとは逆で「非作品性」の中からなんとかして
「作品性」を付加できないかと模索してきました。
断熱や構造が良いなら意匠や作品性はどうでも良い、
と考えるのは設計として違うと思ったからです。
私自身が考える作品性って料理で例えると、
ビジュアルが斬新でメディア映えする今までに無かった見た目の料理である、という作品性だけではなくて、
見た目はシンプルでありながらも
食べたらめちゃくちゃ美味しいとか、
出汁が最高っていう作品性もあるのではないかと思っています。
ただしそれは写真では伝わらなくて、体験した人だけが感じられるもの。
家の設計だと建築家個人の世界観で閉じられたものではなくて、
施主さんにも職人さんにも開かれていて、
それを全力で受け止めて、どう統合するか、
というところに自身の作品性が宿るのではないかと考えています。
毎回違う建築が生まれるため建築家個人のスタイルが無いように見えますし、
正直写真でも伝わりにくい目には見えない類の作品性です。
プロジェクトの進め方、スイッチコンセントの付ける位置一つとっても、
設計者の隠しきれない設計力や人間力が、
施主さんの要望に合わせて出汁のように出てくるものだと思っています。
これはハウスメーカーで数多の施主さんと出会えたから気付けた事。
実践の経験値が少なればわからなかったでしょう。
作品性と非作品性は決して対立したり矛盾するものではなくて、
最終的に一体となって統合される共生の要素ではないかと思うのです。
伊東さんのように作品性から非作品性へと移行するベクトルと、
私のような非作品性から作品性
を模索するベクトルは全く真逆な方向ではありますが、
もしかしたら、少しは同じ景色を違う地点から眺めているのではないかと思い、
これを文章で残してくださった事はハウスメーカー出身の私としては大きな勇気を頂けて、静かな感動が沸き上がってきました。
もちろん、伊東さんに比べて私が見えている解像度は全然違うとは思いますが、
建築が作品性と非作品性の狭間で揺れ動いていて、
建築界のトップランナーの伊東さんがアノニマスな非作品性についての
価値に言及いただけた事が心底嬉しかった。
「誰のための建築か」一生追及する命題です。

